チャイコフスキ―「ピアノ協奏曲第1番」
ベートーベンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」に並ぶピアノ協奏曲の名曲、チャイコフスキ―の「ピアノ協奏曲第1番」は、ピアノ協奏曲を語る上で欠かせない曲なっています。
雄大・壮麗な出だし(第1楽章)は、余りにも有名ですが、人気の陰に東西冷戦が関わっていたようです。
第二次世界大戦前から戦中にかけてアメリカではトスカニーニ(指揮者)は、絶大な人気を誇っていたようです。
一時、引退を表明していたトスカニーニに、アメリカの大石油会社が金に糸目を付けず名手を雇い名器を揃えNBC交響楽団を設立し指揮者に彼を招いたというのは有名な話です。
このトスカニーニが娘婿のホロビッツ(ピアノ)との共演で残した録音も有名です。
しかし、何といってもアメリカでこの曲が人気を博したのは、大戦が終わった後の東西冷戦下にソビエトで開催された第一回チャイコフスキ―国際コンクールの影響が大きかったようです。
当初はピアノとヴァイオリン部門のみだったチャイコフスキ―国際コンクールですが、第一回のピアノ部門の優勝者は、アメリカのヴァン・クライバーンでした。
審査終了後に、審査員一同は居合わせたフルシチョフ首相にアメリカ人を優勝させて良いか確認したところ、「彼が一番上手かったのか?」「それなら賞を与えよ」とのフルシチョフの言葉でクライバーンが1位となったようです。
審査員と参加していた、ピアノの巨匠リヒテルは、クライバーンに満点を与え、他の演奏者には全て0点を付けたと言われていますので、クライバーンの実力は確かなものだったようです。
この冷戦時代にソビエトに赴き「優勝」という快挙にアメリカ中が湧き立ち、彼は国民的ヒーローに!
この事で、アメリカでこの曲は、一躍有名になりビルボードで連続7週1位となっています。
圧倒的な人気はァメリカが起爆剤になったとも言われています。
しかし、クライバーンは健康上の理由から1980年代には演奏する機会が無くなっていたようですが、一節では、アメリカの豊かさや楽しい生活(お金も含めて)が彼の音楽家としての成長を妨げたとも言われています。
私の愛聴盤は、アルゲリッチ(ピアノ)とコンドラシン(指揮)の1980年盤です。
アルゲリッチの奔放なピアノがオーケストラに負けていません。
正に「ジャジャ馬」、アルゲリッチがショパンコンクールの審査員をしていた時も他の審査員と意見が合わず席を立ち帰ってしまう程の「ジャジャ馬」です。
1994年のベルリンフィルとの共演も名盤ですが、私は、バイエルン放送響のピアノを立てているようなバランス感覚が好きです。
94年盤の円熟味よりも、何をしでかすか分からない「ジャジャ馬」、天才の閃きに魅力を感じます。