堺市の変人

堺市から情報を発信する変人親父です

映画「セッション」

 偉大なドラマー「バディ・リッチ」に憧れ、音楽学校に通っている青年ニーマンと教官フレッチャーが、ぶつかり合い騙し合いしながら完璧な演奏を求めると行った内容ですが後味が複雑な映画でした。

 よくある師弟物とは全く違い、人格をも破壊してしまうような師弟の攻防はスパルタを超え異常な程の狂気を孕んでいるようで、画面を観ながら何回か「あれっ違う」といった感覚になってしまいました。

 しかし、最後の凄まじいドラムの演奏は圧巻です!

 アカデミー賞では、この作品が5部門にノミネートされ助演男優賞(J・K・シモンズ)、編集賞、録音賞の3部門を受賞しています。

 アメリカの文化は「ジャズ」と「ハンバーガー」とよく言われますが、さすがにジャズの国アメリカならではの映画です。(審査員の中にもジャズ好きの人が多かったのでは?)

 最後の演奏だけでも観る価値はあると思いますが、私が審査員なら「ラストシーン賞」に決まりです!

 以前に観た2010年のフランス映画「オーケストラ」(コメディ?)でもチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が主人公のように映画を盛り上げていたのを思い出します。

 改めて音楽の「力」凄さを感じてしまいました。

「ズキ」「ズキ」

 今朝の散歩もワンコ(柴二匹)を連れて公園を一回りしました。何時もの如くベンチで煙草をゆっくり吸い、コンビニで朝刊を買って帰るパターンですが一匹は公園でウンチ、もう一匹はコンビニにまでの道端でウンチと理想的な展開に大満足でした。(ワンコのウンチで満足できるオッサンです。)

 コンビニに着いて新聞をゲット、その時、配送の運転手さんに声を掛けられました。「柴犬ですか?」「私も以前柴犬を飼っていました。」「柴は気が強いでしょう!」「咬まれてから柴を飼うのが怖くなりました。」・・・

「はい、柴です。」「犬に咬まれた傷は、疼くでしょ!」・・・と言葉を返していましたが、配送の車が去った後、少し寂しい気分になってしまいました。

 確かに、犬を飼っていたら飼い犬でも咬まれる事は有ります。私も預かり犬に二回咬まれています。家内も一回咬まれ救急に駆けこんだ事も有りました。

 しかし、ワンコが咬むのには、それなりの理由が有る様な気がします。(多分?)

運動量(散歩)が少ない、ワンコがリーダーになり無理をしている・・・色んな事でワンコのストレスが溜まれば、当然、犬も苛立ってきます。

 しっかりと飼い主がリーダーになってあげたら犬は安心するようです。群れの中で暮らす犬の本能どおりに暮らしていけるようにすれば自然と犬の我がまま行動は納まって来るように感じます。

 犬は玩具では有りません!生き物同士(人間と犬)ですから、飼い主が確りとワンコと向き合えば必ず信頼関係が生まれて来ます。無責任な言い方かも知れませんが、「一回や二回咬まれても良い」といった覚悟も必要な気がします。

 それにしても、咬まれた傷は「ズキ」「ズキ」と痛いものです。お医者さん曰く「犬の咬み傷は絶対縫ったらダメ!雑菌が中に入っているから縫って雑菌を中に閉じ込めるような事はしないで体液を出しながらくっ付くのを待つ」のが一番良いようです。

 「ズキ」「ズキ」した経験ですが、ワンコに咬まれた飼主さんの参考になれば幸いです!

京都慕情

 最近この歌を家内がよく口ずさんでいます。1970年にベンチャーズが発表した曲で、当初は当然歌詞の無い楽器だけの曲でした。すぐに渚ゆう子が歌詞を付けてカバーし今でも親しまれています。

 実は、NHKの「京都人の密(ひそ)かな愉(たの)しみ」の影響です。既に何回か放送されているドラマですが、ここでエンディングに使われているのが「京都慕情」、物語の雰囲気と曲(歌詞)とがこれ以上無いと思わせるほどマッチしています。

 最近、「May j.」が歌う「京都慕情」を聴きましたが、私には「弱い女・・・」の歌詞が感覚として「強い女・・・」に聴こえてしまいます。

 渚ゆう子は、さすが本家本元だけあって文句の付けようが有りません。しかし、このドラマのテーマ曲は武田カオリのソフトな歌声がこれ以外に無いと思えるほどマッチしています。

 作曲したベンチャーズは、日本との係わりが深く「二人の銀座」「京都の恋」「京都慕情」「雨の御堂筋」等の曲でも有名ですが、日本での収入が米国の収入を超えていた事でも、その事が頷けます。それにしても、アメリカのミュージシャンから、このような「日本的」な曲が生まれた事は驚きです。

 このドラマのエンディングに限って言うと、歌は武田カオリがピッタリといった感じに思えました。今も横で家内がこの歌を口ずさんでいます。

コンバーチブル

 7年位前に、ハワイでコンバーチブルを借りた事が有ります。アメリカでは1960年代から造られている人気車種フォードマスタングコンバーチブルでした。

 ハワイでは屋根をオープンにしたマスタングがよく走っていますが、ハワイの気候や風景にはコンバーチブルがピッタリです。とにかくカッコイイの一言に尽きます。「一度はコンバーチブルに!」と私同様に家内も考えていたようです。

 たまたま、その時は少人数(3人)、一緒に行く仲間は運転好きという事もあって思い切って念願のコンバーチブルをレンタルしました。「色は何色にしますか?」と聞かれ、迷わず「赤」を指定し準備OK!スーツケース2つをトランクに、残りの1つを後部座席に積み込み空港から宿までひとっ走りといったところです。スポーツタイプの車ですのでスーツケースは3個が限度でした。

 さすが4.6ℓのマスタング!何のストレスも無くハワイの溶岩大地の中を突っ走って行きます。友が運転、家内が助手席、免許を持っていない私が後部座席に座りました。

前二人はご機嫌な気分でドライブを楽しんでいます。(フロントガラスが風邪を遮ってくれます。)

 しかし、後部座席の私は風との戦いでした。スピードが上がると息をするのも大変な思いです。挙句の果ては、風を避けるため積んであるトランクを押しのけながら頭を低くしていましたので風景を見るどころではありません!

 途中で堪らず家内と交替したのですが、家内の髪はバサバサ、風邪の音が煩くて話も出来ないと文句たらたらでした。おまけに帽子は飛んで行ってしまいますので被れません!強い陽射しをまともに受けながら風と格闘しているようなものです。

 もしコンバーチブルに乗るのなら二人が限度のような気がします。

 一日二日は嬉しがってオープンで走りましたが、後半はほとんど屋根を付けて走っていましたが、あの時以来、コンバーチブルを借りる事は無くなりました。

二つの映画

 「西部開拓史」「サウンド・オブ。ミュージック」は、私にとって忘れられない映画です。

 それぞれ165分、174分の映画ですが1960年前半に作られたものですから私が10歳前後、弟が8歳残後の時に父に連れて行ってもらった事になります。

 今から思えば、普通なら「ゴジラ」や「モスラ」・「サザエさん」なんかの子供映画がお似合いの小学生ですから、親父は自分の観たい映画に私と弟を付録として連れて行ったようなものです。弟なんかは7歳です。2時間を優に超える大作は理解しろといっても出来るはずがありませんし、益して楽しかったという思いは全く記憶にありませんでした。

 しかし、不思議なもので、これらの映画の題名を見ると「ああ・・昔観た映画・・・」と小さな時の事が鮮明に浮かんで来ます。「西部開拓史」の列車上での追跡シーンや「サウンド・オブ・ミュージック」の美しすぎるアルプスの風景なんかは鮮明に覚えていました。

 大きくなって、じっくりこれらの映画を観ると、やはり「名作だな!」とつくづく思います。なにせ、「サウンド・オブ・ミュージック」の監督は、ロバート・ワイズ、出演ジュリー・アンドリュースクリストファー・プラマー、「西部開拓史」はヘンリー・ハサウェイジョン・フォード等3人の監督でジェームズ・スチュアートジョン・ウェイン・・・出演となれば、日本映画でいう小津安二郎(監督)と笠智衆田中絹代原節子のコンビを観るようなもので悪いはずが有りません。

 以前の「ハリウッド映画」は、CGなどの映像技術が無いので人が出来る事を真面目に撮っていたように感じ好感がもてます。

 親父に連れて行ってもらった名作二つ、今はもう聞く術も有りませんが子供の観たい映画より自分の観たい映画に私達を連れていったと今でも確信しています。

小さな大冒険

 実家の近くに「畝傍山」があります。標高が200㍍弱、麓から100㍍も登れば山頂ですから、散歩のついでにちょっと山頂までといった感覚で簡単に登れてしまいます。

 万葉集にも「香具山は畝火(うねび)ををしと 耳成(みみなし)と相あらそひき神代より かくにあるらし古昔(いにしへ)も然(しか)にあれこそ うつせみも嬬(つま)をあらそふらしき」と歌われている大和三山のひとつですが、私にとっては小さい頃の遊び場です。

 小学生の頃、悪ガキ仲間で初めてこの山に登った時は、ちょっとした探検家気分でした。子供の目には、私が今見ている畝傍山が10倍も大きな山に見えましたし、分岐が有れば片方は何処の世界に続いているかといった具合で小さな私達には「大冒険」でした。

 ほんの近くの森や村も、子供にとっては「トトロの国」を見に行くような好奇心の対象であったような気がします。

 ひょっとしたら、あの頃だったら「ドリトル先生」のように動物と話が出来たり、「まくろくろすけ」が見えたりしたかも?

 家の横に小屋を作り銀玉鉄砲で道行く人を討ったり、屋根に漫画を持って上がり基地を作ったりもしました。(勿論、こっぴどく怒られました。)

 携帯電話やゲーム機なんか無かった時代ですが、周りの自然や身近に有る物で楽しく遊んでいた時代が懐かしく思い出されます。

 子供たちが家に帰ってゲーム機なんかで遊んでいるのを見ると、少し寂しくなってしまいます。何かと便利な時代になりましたが、失ってしまった大切な物が有る様な気がします。

卵とじウドン

 若い頃は良く山に行ったものです。北アルプスが多かったですが一週間位縦走した事も有りました。勿論、小屋泊まりで無くテント泊です。(安くつきます!)そろそろ体力的にも小屋泊まりを真剣に考えた方が良いのは分かっていますが、一日行動してベースキャンプに帰った時の「あー、家に帰った」という充実感は今も忘れません。なにより、テントは自分達だけですから全く気を使わずノンビリ出来ます。

 ただ、食料も一週間分となると持っていける量に限度が有ります。どうしても食事量が少なくなりますので、下山した時には必ず体重が減っています。

 徳沢なんかの人が多い場所では、ゴミ箱に未だ食える野菜やパンなんかが捨ててあり有り難かったですが、上に上がれば上がる程貴重な栄養源が無くなってしまいます。(徳沢で食べた、拾った野菜で作ったサラダの美味しさは今も忘れません!勿論、梓川で丁寧に洗いました。)

 山行の終盤ともなると、話題と言えば「食い物」の話が多かった気がします。山を下りれば「僕は絶対にかつ丼!」「大盛りのカレー」・・・それぞれが口に唾をしながら夢を語り合います。私はその時、「大阪の卵とじウドン」が頭から離れませんでした。

 薄味の「他人とじ」では無く「卵とじウドン」です!優しい味付け(調味料の味がしない)で卵の味が確りしているウドンは2杯くらい一気にいけそうです。(二十歳代の話です。)

 そういえば、昔は何処のお店でも「卵とじウドン」がメニューに載っていたような気がしますが、最近とんと見かけません。お寿司屋さんで良く食べた「とり貝」なんかも、最近見かけません。(回転寿しばかり言っているから?)

 昔は当たり前のように有ったものが、知らぬ間に消えていってしまうのは少しさびしい気持ちです。

 それにしても「大阪の卵とじウドン」は、美味しかったなあ・・・